偶然日記

いまのテーマは愛と適切な距離感♡

癒し系って何なんだろう。

むかし「癒し系だね」といってナンパしてきた男三人組に無理やり腕を引っ張られて、レンタルルームへ連れていかれそうになったことがある。

助けてください!!!と叫んだら3人同時にパッと手を離したのがチキンって感じでしょうもなかった。

 

 

癒し系だね、と言われることがある。女性にも男性にも。

ほめ言葉なのだろうから基本的にうれしくおもうけれどわたしには衝動的なところもあるし、

癒されたいなら野原や森の中へ行ってください。と、おもう。

人間に癒しを、それもただでもらおうとするのは卑しいと思う。

 

まあでも大切な人が疲れていたら話を聴いたりマッサージしてあげたりはしたいよ。

でも癒される体験って、う~ん、ひとりのときに起こる気がする。

 

ハナレグミ」というタイトルで、前回書いたことは撤回。

なぜなら書いた日の晩に象徴的な夢を見たから。どんな夢かはたぶんまた今度書く。

小声のわたしと、大きく声をはりあげたいわたし

ふたりが話し合えるように、ちょうどよい解がでるように。

そしてかき消されがちな小声のわたしの声には、注意深く耳を澄ませて。

 

おだやかな日々がベースで、いいのだ。やはり。

ハナレグミ

夜、母のお風呂を待っているあいだ、

昔好きだったハナレグミのカバーアルバムを聴いていたら、

こみあげてくるものがあってぼろぼろと涙をこぼしながら冷たい窓に額を押し当てていた。

「わたしは ばかだ」と何度も思った。

ばかだ、と気づいた。

こんなふうに、魂のかたちがくっきり見えるような表現から、

わたしはずっと逃げていた。

 

2年前わたしは入院した。ICUと精神科に。

それからだとおもう。

おだやかで、ざわざわしない日常と引き換えに、

芸術と、わたしの大事な衝動性が奪われていった。

いや、自分で選んだのだ。もう傷つかないように、揺さぶられないように、魂の表現からは距離を置こうと。

 

 

そうして気がついたらわたしにはわたしの魂のかたちがわからない。

用意していたようなフレーズや、洗い流さないトリートメントや、ホ・オポノポノや、健康法や静かなピアノ曲占星術や整体やカモミールティーやなんやらで

わたしの魂はすっかり着ぶくれしてしまった。

 

ハナレグミの、このカバーアルバムを聴いていた時はいつだっけ。

小説家になりたかった、小説ばっかり書いていた、大学生の頃かな。

 寝癖も直さず学校へいってた。

 

ハナレグミが「悲しくて 悲しくて」と唄うと、ほんとうに静かな悲しさが流れ込んでくる。孤独な少年が口ずさんだ鼻歌を、こっそり聴いてしまったような。

そのようなイノセンスを、あの日から置き去りにしてしまっていた。

 

おだやかでなくていいから、また傷ついて、揺さぶられていいから、

わたしはまた、いまからでもわたしのたましいにくっきりと歩みたい。

 

 

 

最近書く気が起こらない。詩を、一つ書いた。

スマホを辞めて一年以上が経った。それについて、書いたらいいのかなとおもうけれど、スマホなしの生活を勧める気はさらさらないし(さらっさらーのサラサーティ♪)ネットの世界はアドバイスだらけだから、何かを提案することへのためらいがある。

 

スマホ(携帯電話)なしの生活は、デメリット多くてメリットは少ない。でも、その少ないメリットに価値を感じているから、続けてる。続けてるというか、この暮らしが快適すぎて、やめられない。

わたしが現在仕事をしていないというのも、続けられる理由にある。でも以前働いていた職場で携帯電話を持っていない方、ひとりいたけれど問題なく仕事をなさっていた。

電話とメールと地図機能だけの携帯電話があればいいな、あ、でもアップルミュージックもいいな。インターネットができちゃうとつい見ちゃう。

 

森山未來は10年以上携帯電話を持っていないらしくて、ペイペイ(?)とかLINEとか、良いなぁ、やっぱりスマホほしーなーとなったとき、ひそかに心の師として思い浮かべさせてもらっていたが、

先日大好きな作家の雪舟えまさんがブログで携帯電話をやめたと書かれていて、たのもしい心の師がひとり増えました。

 

わたしはマルチタスクがすこし(すごく?)苦手ということもあり、携帯電話のない暮らしがとてもあっていると思う。

スマホで自由に情報発信をして、それが収入になったり、ひとびとを沸かせたりするひとたちを見ると、すてきだな、軽やかだなとおもう。風の時代の人たち、という感じで。

 

わたしもそういうのに憧れちゃうけれど、わたしの場合は、ひとまず脳みそを落ち着かせる時間というのが毎日ひつようで、何にもしない時間があるからこそ、日々漕ぎ出せる、漕いでいられる、という感じなのだった。

 

 

このところ、

すてきな自分にならなきゃ!

って、ちょっと焦っていることに気がついた。

 

なんというか、

自分のいい所を伸ばしてゆくというのではなく、

コンプレックスを解消してゆく方向で、今しなくてもいいような努力を進めていた。

 

褒められることが増えてきたけれど、もちろんうれしいしもっとがんばるぞってなっていたけれど、

ゆっくりひとりで過ごす時間の豊かさや、

短所があるからこそ魅力的な人たちの存在、

そして自分もおそらく欠点だらけだろうけれど、いいところもたくさんあるだろうし、

そういうすべてを周りからはふんわりと受け入れてもらってる。

そういう事実を忘れかけていた。

 

すてきな自分になれるかも、と思えることは素晴らしいことだ。

でもいまの○○を治さないことにはすてきな自分にはなれない!

と思って努力をするのはくるしい。

 

たとえばわたしはあと6キロ痩せたい。

でも6キロ痩せた先にしかすてきなわたしはいないのか?

いまのわたしは?

 

 

 

いまのわたしも、6キロ痩せた先のわたしも、どちらもすてきだって言い張りたい。

書きながら、今浮かんだ。

秋の風を感じながら歩いてみようと。

 

五感を研ぎ澄まして世界のうつくしさに触れることは、

いまのわたしにもできるすてきなことだ。

そうしてそういうことから、わたしのすばらしさは始まってゆく。

コロンボの「忘れられたスター」って回は何度観ても素晴らしいな、とおもう。

いま、TVつけたらやっててラストシーンだけ観たけどあまりにも洗練されていて、きりっとしていて、すごい。涙ほろり。

有名な「別れのワイン」だっけ?あれもすきだけれど、なぜ犯人がワイン庫の空調を切ったのか理解できない。動転してたのか?

 

きょうははじめてクラニオセイクラルをうける。

受け終わった後が、なんかすごくて、ずっとふわふわしていた。

そして、やってみたいことが浮かんだ。

 

あしたからやってみよう。