「どこに座ろうと、そこで僕は生活できる。風景は僕から展開してゆく」
『森の生活』ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
今日飲んだお茶。
台湾の、「凍頂龍眼金萱(とうちょうりゅうがんきんせん)」。
香ばしくあったまる。
朝は生涯記憶に残しておきたいほどの粉雪。
「どこに座ろうと、そこで僕は生活できる。風景は僕から展開してゆく」
『森の生活』ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
今日飲んだお茶。
台湾の、「凍頂龍眼金萱(とうちょうりゅうがんきんせん)」。
香ばしくあったまる。
朝は生涯記憶に残しておきたいほどの粉雪。
午前3時に目が覚めてそれから、眠れない
リビングと母の寝室を行ったり来たり
母が目を覚ますのが待ちきれなくて
7時過ぎ、起こしに行く
昼、母がテレビで映画を見ることすらさびしくてしてほしくない
ほんとうはいっしょに踊りたい
眠れる森の美女の曲で
夕方、こたつに脚を入れて横になっていると
それが階段を下りてくるのがわかる。
鬱……。
そうして鬱はわたしの横に居座る。
なつかしい鬱。
こんにちは鬱。
ひさしぶり鬱。
鬱は心臓の鼓動を、音のする重い沈黙に変える。
この重みを、
抱えてわたしは、
「真理に照らしてこう言おう。あなたが、あなたのわざを天国のためとか、神のためとか、あなたの永遠なる浄福のためとか、つまりは、外に立てたものからなすかぎり、あなたはけっして正しくはないと。たしかにひとはあなたを認めてはくれるであろうが、しかしそれが最善なことではない。なぜならば、内面への沈潜、敬虔な祈り、甘美な法悦、あるいは神の特殊な恩寵の内にあるほうが、かまどの火のそばや、うまやにいるよりも、多くのものをうることができると思い違いをするならば、あなたも、神をとらえ、その頭にマントをかぶせて腰かけの下に押し込めてしまうようなものだからである。
なぜならば、神をある仕方で探す人は、その仕方を手に入れるだけで、その仕方のうちに隠れる神をとらえることがない。しかし神を、いかなる仕方もなしにさがす人は、神をあるがままの姿でつかむのである。そのような人こそ、子と共に生きる人であり、つまりは命そのものなのである。だれかが命に向かって千年もの間、「あなたはなぜ生きるのか」と問いつづけるとしても、もし命が答えることができるならば、「わたしは生きるがゆえに生きる」という以外答はないであろう。それは、命が命自身の根底から生き、自分自身から豊かに湧き出ているからである。それゆえに、命はそれ自身を生きるまさにそのところにおいて、なぜという問いなしに生きるのである」
『エックハルト説教集』より引用