月の言語を持つ人と、
太陽の言語を持つ人がいる。
それに気づいたのは昨日の朝でした。
その前の晩、わたしは話し方の癖を指摘されました。
「天井とかを見て、考えて、言葉を選んでから、話してる。思ったことをそのまま口に出す練習すれば? たとえば友達に、わたしがこんな話し方になってたら教えてねーって言っとくとかどう? あとその胸に手を当てるのは癖なの?」
そのひとは占いの修行中のひとで、メンタリストみたいに、しぐさとか癖とかから、そのひとを観ようとしてる。たとえばわたしが脚を組んだ瞬間に、「いま構えた?」と聞かれた。いやぜんぜん、何も考えていなかったよ。
ただそのひとと話している間中、わたしが頻繁に胸に手を置いていたのは、だいじな心を守るためだったのだとおもう。
話し方を指摘されて、わたしはますます、何も言えなくなってしまった。
そこは起業したい人や町おこしをしたいひとの集まる場所だったんだけど
「ここは自分力(じぶんりょく)がないと心病むけど大丈夫?」と、
「あなたには自分がない」みたいな言い方もされて、
またそういう短い時間で自己主張がしっかりできる人たちの前ではますますおどおどしよわよわしくなってしまう自分がみじめでたまらなくなって
その夜は真夜中まで公園に一人でいた。
公園のベンチに座りながら、
目の前の樹たちが、街灯たちが、夜が、
わたしの目にはすべて偽物に映った。
そうだった。
はじめからすべて偽物だった。
わたしと世界のあいだには(わたしと他者のあいだには)
いつも半透明の分厚い壁があり、
だからわたしは一拍置いてからじゃないと話せない。
だからわたしは他者と深いかかわりが持てない。
だから死んでしまってもいい
むしろ死んでしまった方が、ほんものの世界に行けそうな気がする
心の底にいるちいさなひとも「死んでほしい」って言ってる
そんなことを平熱の感じで思った
夜が明けて私は、
月の言語を持つ人と、
太陽の言語を持つ人がいる
と思った。
たぶんわたしは月の言語を持つ人。
わたしたちが所属する場所の多くは
太陽の言語を持つ人によって形作られている。
だから月の言語を持つ人が、
世界に「隔たり」を感じていたとしても
無理もないことなのだ。
太陽の言語によって作られた風景を、
月の言語でそのままに認識することはできない。
だから月の言語を持つ人というのは
「自己主張」とか
「コミュ力」みたいなのが必要となる場所(=太陽の言語によって作られた場所)に行き過ぎると
自分本来の豊かさがすこしずつ削られてゆく。
「1分間で自己紹介をお願いします」みたいなのがすごく苦手なのだ。
月の言語を持つ人の中には
深い湖がある。
澄んだ水
濁った水
生きている魚
死んでいる魚
落っこちていった数多くの宝物
それを落としていった人の記憶
この深さはどこまで続くのか
自分のこの「湖」について、
たとえば1分間で
目の前の初対面の他者たちに
伝えなくてはいけない。
それには取捨選択が必要となり
抽象的な風景には無理やり言葉をあてがわなくてはならなくなる。
「水深◎◎メートルの、~~地方にある△△湖です」
このようなことが続くと、
月の言語を持つ人は
嘘をついているような気持ちになってくる。
だんだん自分のことが、嫌いになってきたりする。
就活とか婚活とか、
疲れたら休みましょう。
月の言語を持つ人は、
自己アピールは苦手だから、すぐに魅力は伝わらないけれど
ぼんやりいっしょにベンチに座っていたりすると
「ああなんかこのひといいなあ」
と思われたりする。
だからしばらくは何事もほどほどにしながら
「自分の月の言語を豊かにする」
ということに目を向けた方がいい。
月を見て、話しかけてみるのも案外いいです。